上海物語 Shanghai Stories

上海で紡がれた名もなき小さな物語たち


一皿の中国料理、ひとかけらの思い出

龍井蝦仁(エビのロンジン茶炒め)ー杭州西湖と緑茶料理ー

 

 

  浙江省の省都であり、かのマルコ・ポーロが東方見聞録の中で「世界で最も美しく華やかな町」と絶賛したという杭州市。中国十大風景のひとつに数えられる西湖を中心に据え、風光明媚な町として知られている。上海・虹橋駅から高速鉄道に乗って約1時間。アクセスの良さで週末旅にも人気のリゾート地だ。

 3年3ヶ月の上海生活の間に、私は杭州を三度訪れた。最初は2008年の初夏の5月。中国人の友人に教えてもらった「大華飯店」に宿泊した二泊三日の週末家族旅行。湖畔の小洒落たレストラン街「西湖天地」は目と鼻の先ほどの距離にある。湖のほとりに佇む中華の趣の低層ホテルは、造りは少し古いが清潔で、フロントの対応も好印象だ。開け放った部屋の窓の外では小鳥が心地よくさえずり、カーテンを揺らすそよ風は中庭の木々の香りを時折ふうわりと運んでくる。翌朝、マントウやお粥など中華式の朝食をとり、湖畔へと出る。はるか向こうへと遠く広がる湖は朝日を反射しながら、柳の枝が垂れる水面に覗き込む私の姿を映し出す。そこには波間にたゆたう緑と青と光の世界が広がっていた。

 「西湖龍井茶」に代表されるように、杭州は緑茶の一大産地でもある。日本では中国茶といえば烏龍茶が有名だが、実は中国で最も愛飲されているお茶は緑茶である。

 中国の人たちは自分で作った緑茶をプラスチックの水筒に入れて無造作にもち歩いている。透明なボトルの中で薄いグリーンの水にたっぷりの茶葉がゆらゆらと泳ぐ様は、西湖の煌めく湖面に泳ぐ柳の枝先と水草の情景を彷彿させる。

 この杭州の銘茶・龍井茶の茶葉と川エビを一緒に炒めた「龍井蝦仁」は杭州の名物料理の一つである。薄ピンク色に透き通った柔らかく弾力ある川海老の上に散らされた鮮やかな緑色の茶葉。芳しい香りとエビの甘みが合わさったシンプルながらも贅沢な味わいの中国料理は、わたしにとっては思い出の一皿だ。

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 夫の海外赴任に帯同して上海に暮らすようになった頃、愛娘はまだ幼稚園児であった。彼女を連れて外食へ出かける際には、いつも携帯していた物がある。「マイ箸セット」だ。中国のレストランでは、長くてツルツルと滑りの良い角箸が使われていることが多く、幼い娘が扱うにはちょっと難しいのだ。特に、具材そのものが滑りやすい物などは、口に入る前にぴゅーん!とどこかへ飛んでいってしまうこともしょっちゅうだった。

 思い出すのは、かの杭州・西湖湖畔の老舗レストラン「楼外楼」だ。名物料理「叫化童鶏」(こじきどりの蓮の葉包み焼き)と「龍井蝦仁」を囲む家族のテーブル。例の長すぎるツルツル角箸と格闘する娘、それを見守る私たち夫婦。「マイ橋セット」はうっかり忘れてきてしまった。

 「ほら、エビさんが食べないで!って言っているよ」と私が言うと、ケラケラケラと甲高い声で娘が笑い転げる。箸が転んでもおかしい年頃という表現があるが、このくらいの子供は食べ物が転がったら、もう大喜びだ。

 さて、再び口に運ぼうと試みるが、またもやつるりと逃げられてしまった。床の上にぽつんと転がった無惨なエビの姿にしばし視線を留めてから、さあ、三度目のチャレンジに臨む。今度はさすがに私の顔色を伺いながら、箸の先には力をこめて、緊張の面持ちでそおっとそおっとそおっと、口に運んだ。ーーああ、よかった!ーー 安堵と甘いエビに思わずほころぶあどけない笑顔。

 帰国して5回目の春を迎えた。私は今、中華鍋の中で踊る芝海老と茶の葉を見つめながら、初夏の眩しい湖畔、家族で囲んだあの料理に思いを馳せる。やがて我が家の小さなキッチンと食卓は、あの日の西湖の記憶と共に芳しい龍井茶の香りと温かな一皿で満ちてゆく。

 

「一皿の中国料理、ひとかけらの思い出」

文・写真/茉莉花 (2015

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